
2012年02月16日
星野監督 77 仲間ひろと(82k)
こんばんは
ネイチャーみらい館です。。。
今日は
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【プロ入りまで】
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には立教大戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩には読売ジャイアンツで活躍した高田繁がいた。
大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、明治大学政治経済学部経済学科卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。
【プロ選手時代】
1968年、ドラフト1位で当時水原茂率いる中日ドラゴンズに入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。この「巨人のV10阻止」の瞬間のリーグ優勝の際の胴上げ投手となっている。
大学4年生時のドラフトに際しては、読売ジャイアンツとの間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。この時の星野について、当時阪神の中心打者の1人だった藤田平は雑誌での江夏豊との対談で、「そういう風に考えているときのほうが得てしていいボールが来るもんなんやね。ぜんぜん打てる気がせんかった」と語っている。なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「勝たんでええ」と言われていたという。
珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾談)。
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。
1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合になり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。
【中日監督時代】
1983年から1986年までNHKで野球解説者を務めた後、1986年シーズン途中で休養した山内一弘の後任として、同年オフに中日監督に就任。日本プロ野球史上初の戦後生まれの監督となった。就任後はロッテオリオンズから落合博満を世紀のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。伸び悩んでいた中村武志・彦野利勝には鉄拳制裁で、山本昌を米留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾孝義を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新した結果、1988年に中日を6年ぶりのリーグ優勝に導くも、日本シリーズでは敗退。中日の球団史上、優勝に導いた生え抜き監督は星野がただ一人である[1]。
1991年限りで「健康上の理由」[2]で退陣。1992年の1年間中部日本放送の客員解説者を務め、1993年からは再びNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務める。1996年に監督復帰し直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に前田幸長も交換トレードで獲得。
自身の妻を亡くした直後の1997年春にナゴヤドームが完成。球場が広くなった事でチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し二宮至が外野守備コーチに就任した。1998年は2位と持ち直す。1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに敗れる。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。
2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で投手コーチ兼ヘッドコーチの山田久志に禅譲し退陣。なお、このとき星野は、同年に巨人監督を退任する長嶋茂雄から「辞めるのはまだ早いから、辞めたらだめだ!!!」と電話を受けたという。
中日の第2次監督時代から選手補強に関してはかなり積極的で、中でも当時FA制度や逆指名制度で補強をしていた巨人に対しては対抗意識を燃やしていた。宣銅烈、レオ・ゴメス、サムソン・リー、李鍾範ら有力外国人選手、明治大学の後輩である武田一浩、川崎憲次郎といったFA選手の獲得は、チーム補強の意味合いが第一とはいえ「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではないかとも言われている。[要出典]
大型補強を断行する一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第1期監督時代には、中尾、大島康徳や牛島和彦(正式就任時。このため牛島は星野の監督在任時には中日ではプレーしていない)、平野謙、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、酒井忠晴、仁村徹、前原博之、清水雅治、大豊泰昭(上記久慈との交換相手だが3年後に復帰)、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。これらの放出により、特に第1次政権時の主力選手は谷沢健一、宇野勝、川又米利を除いてほとんど放出されてしまい、そのうち谷沢は星野の就任と入れ替わりに引退した(就任1年目のオープン戦に引退試合を行った)。また、宇野が放出されたのは高木守道が監督の時である。
【阪神監督時代】
中日監督を退任した直後の2001年オフ、阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録したが、結果的に4位に終わる。同年オフに選手の大量解雇・トレードを断行。その結果山田勝彦、坪井智哉らが日本ハムなど他球団へトレードで出された。同時に広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らを引き入れ、投打の大型補強を行った。翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアスら主力選手の活躍により首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに第7戦で敗れるも、日本中をタイガースフィーバーに巻き込んだ。その証拠に毎年恒例の1年を表す「今年の漢字」(漢検協会)の2003年の漢字は「虎」になるほどであった。
しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮をヘッドコーチの島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。
2003年の日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。のちに行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布を倍以上差をつけ1位になっている[4]。
武田一浩や川上憲伸、小笠原孝など明大の後輩をよく自球団に誘っていたが、鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにもかかわらず、福岡ダイエーホークスに放出されてしまった[3]。鳥越は1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました、拝啓・星野仙一様」と発言、物議を醸した。鳥越によれば、放出された悔しさをバネにダイエーで頑張ろうと決めていたという程度の意味合いとの事。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていた際は、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中を、既に優勝が決まっていた広島戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも登板させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたが、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト戦)に中4日登板させた。また、「MVPは優勝球団から」を記者にアピールし、成績で勝る上原浩治への投票を牽制した。そして山崎武司には松井秀喜に本塁打数が1本勝っていたため松井秀喜を全打席敬遠。高校時代の4打席連続敬遠を思わせるような行為に巨人ファンもとより中日ファンからも非難があがった。ファンからは「勝負を逃げるなんて星野監督らしくない」と言われた。当の本人は「松井君にタイトルを取られると同じ数であっても山崎は注目されず、注目度の高い松井君のものになってしまう」と発言した。
1987年6月11日、熊本・藤崎台県営球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を突き出したのは「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から球審を務めていた橘高淳に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義、大西崇之も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。
監督時代、第一製薬(現・第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドしてる映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。
阪神監督退任後 [編集]2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。
アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務めている。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。野球解説者としては放送局に契約しないフリーランスの形で各局のテレビ中継に出演している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタートしたが、2008年に閉鎖。
2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。これに関して江夏豊は「阪神に籍を置く身分でありながら、星野サイドからの売り込みがあった」と週刊誌で暴露している。そして巨人OB、ファンなどの反発も大きかったことを受けて星野は9月10日に巨人入り拒否を公式に表明。
2006年10月よりスタートした、日本テレビ系列の『NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターに就任。
【北京五輪監督】
2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。しかし「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で銅メダルさえ獲れず、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京代表監督としての星野への評価については「北京オリンピック野球日本代表#本戦での結果・評価」を参照
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[5]。一方、自分の采配についての発言が、多くのマスコミやネット上から責任転嫁として批判の対象となった[6]。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。
【楽天監督時代】
2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティー番組星野仙一の熱血・仙一夜がMBSラジオにて放送される。同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表した[7]。その後、同27日に仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[8]。選手・監督通じて初めてパ・リーグの球団のユニフォームに袖を通すこととなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。また楽天の監督として日本野球協会の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたオールスター第三戦が仙台の日本製紙クリネックススタジアムで開催されることになった。楽天の監督としての就任1年目は後半戦の7連勝でチームは3位に浮上するものの、最終的には5位に終わる。同年オフには阪神時代と同様に選手の大量解雇・トレードを断行。その結果金銭トレードでソフトバンクから小斉祐輔、ヤクルトから川島亮、中日から小山桂司、球団から自由契約にされた稲田直人、加藤大輔、定岡卓摩、ホセ・フェルナンデス、トレードから橋本義隆、上園啓史、入団テストで下柳剛を次々と獲得。投打の大型補強を行った。
【タイトル】
最多セーブ投手:1回 (1974年)(セ・リーグの初代最多セーブ投手である)
最高勝率(当時連盟表彰なし):1回 (1975年) ※セントラル・リーグでは、1972年まで表彰
【表彰】
沢村賞:1回 (1974年)
月間MVP:2回 (1975年9月、1977年8月)
正力松太郎賞:1回 (2003年)
報知プロスポーツ大賞特別功労賞 (2003年)
【記録】
オールスターゲーム選出:6回 (1969年、1974年 - 1976年、1979年、1981年)
【背番号】
22 (1969年 - 1970年)
20 (1971年 - 1982年)
77 (1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - )
最後まで読んでいただいた方へ
次はだれのプロフィールがいいですか?
遠慮はいりません(笑)
以上
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には立教大戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩には読売ジャイアンツで活躍した高田繁がいた。
大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、明治大学政治経済学部経済学科卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。
【プロ選手時代】
1968年、ドラフト1位で当時水原茂率いる中日ドラゴンズに入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。この「巨人のV10阻止」の瞬間のリーグ優勝の際の胴上げ投手となっている。
大学4年生時のドラフトに際しては、読売ジャイアンツとの間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。この時の星野について、当時阪神の中心打者の1人だった藤田平は雑誌での江夏豊との対談で、「そういう風に考えているときのほうが得てしていいボールが来るもんなんやね。ぜんぜん打てる気がせんかった」と語っている。なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「勝たんでええ」と言われていたという。
珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾談)。
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。
1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合になり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。
【中日監督時代】
1983年から1986年までNHKで野球解説者を務めた後、1986年シーズン途中で休養した山内一弘の後任として、同年オフに中日監督に就任。日本プロ野球史上初の戦後生まれの監督となった。就任後はロッテオリオンズから落合博満を世紀のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。伸び悩んでいた中村武志・彦野利勝には鉄拳制裁で、山本昌を米留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾孝義を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新した結果、1988年に中日を6年ぶりのリーグ優勝に導くも、日本シリーズでは敗退。中日の球団史上、優勝に導いた生え抜き監督は星野がただ一人である[1]。
1991年限りで「健康上の理由」[2]で退陣。1992年の1年間中部日本放送の客員解説者を務め、1993年からは再びNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務める。1996年に監督復帰し直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に前田幸長も交換トレードで獲得。
自身の妻を亡くした直後の1997年春にナゴヤドームが完成。球場が広くなった事でチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し二宮至が外野守備コーチに就任した。1998年は2位と持ち直す。1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに敗れる。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。
2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で投手コーチ兼ヘッドコーチの山田久志に禅譲し退陣。なお、このとき星野は、同年に巨人監督を退任する長嶋茂雄から「辞めるのはまだ早いから、辞めたらだめだ!!!」と電話を受けたという。
中日の第2次監督時代から選手補強に関してはかなり積極的で、中でも当時FA制度や逆指名制度で補強をしていた巨人に対しては対抗意識を燃やしていた。宣銅烈、レオ・ゴメス、サムソン・リー、李鍾範ら有力外国人選手、明治大学の後輩である武田一浩、川崎憲次郎といったFA選手の獲得は、チーム補強の意味合いが第一とはいえ「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではないかとも言われている。[要出典]
大型補強を断行する一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第1期監督時代には、中尾、大島康徳や牛島和彦(正式就任時。このため牛島は星野の監督在任時には中日ではプレーしていない)、平野謙、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、酒井忠晴、仁村徹、前原博之、清水雅治、大豊泰昭(上記久慈との交換相手だが3年後に復帰)、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。これらの放出により、特に第1次政権時の主力選手は谷沢健一、宇野勝、川又米利を除いてほとんど放出されてしまい、そのうち谷沢は星野の就任と入れ替わりに引退した(就任1年目のオープン戦に引退試合を行った)。また、宇野が放出されたのは高木守道が監督の時である。
【阪神監督時代】
中日監督を退任した直後の2001年オフ、阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録したが、結果的に4位に終わる。同年オフに選手の大量解雇・トレードを断行。その結果山田勝彦、坪井智哉らが日本ハムなど他球団へトレードで出された。同時に広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らを引き入れ、投打の大型補強を行った。翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアスら主力選手の活躍により首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに第7戦で敗れるも、日本中をタイガースフィーバーに巻き込んだ。その証拠に毎年恒例の1年を表す「今年の漢字」(漢検協会)の2003年の漢字は「虎」になるほどであった。
しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮をヘッドコーチの島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。
2003年の日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。のちに行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布を倍以上差をつけ1位になっている[4]。
武田一浩や川上憲伸、小笠原孝など明大の後輩をよく自球団に誘っていたが、鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにもかかわらず、福岡ダイエーホークスに放出されてしまった[3]。鳥越は1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました、拝啓・星野仙一様」と発言、物議を醸した。鳥越によれば、放出された悔しさをバネにダイエーで頑張ろうと決めていたという程度の意味合いとの事。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていた際は、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中を、既に優勝が決まっていた広島戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも登板させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたが、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト戦)に中4日登板させた。また、「MVPは優勝球団から」を記者にアピールし、成績で勝る上原浩治への投票を牽制した。そして山崎武司には松井秀喜に本塁打数が1本勝っていたため松井秀喜を全打席敬遠。高校時代の4打席連続敬遠を思わせるような行為に巨人ファンもとより中日ファンからも非難があがった。ファンからは「勝負を逃げるなんて星野監督らしくない」と言われた。当の本人は「松井君にタイトルを取られると同じ数であっても山崎は注目されず、注目度の高い松井君のものになってしまう」と発言した。
1987年6月11日、熊本・藤崎台県営球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を突き出したのは「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から球審を務めていた橘高淳に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義、大西崇之も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。
監督時代、第一製薬(現・第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドしてる映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。
阪神監督退任後 [編集]2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。
アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務めている。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。野球解説者としては放送局に契約しないフリーランスの形で各局のテレビ中継に出演している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタートしたが、2008年に閉鎖。
2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。これに関して江夏豊は「阪神に籍を置く身分でありながら、星野サイドからの売り込みがあった」と週刊誌で暴露している。そして巨人OB、ファンなどの反発も大きかったことを受けて星野は9月10日に巨人入り拒否を公式に表明。
2006年10月よりスタートした、日本テレビ系列の『NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターに就任。
【北京五輪監督】
2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。しかし「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で銅メダルさえ獲れず、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京代表監督としての星野への評価については「北京オリンピック野球日本代表#本戦での結果・評価」を参照
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[5]。一方、自分の采配についての発言が、多くのマスコミやネット上から責任転嫁として批判の対象となった[6]。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。
【楽天監督時代】
2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティー番組星野仙一の熱血・仙一夜がMBSラジオにて放送される。同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表した[7]。その後、同27日に仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[8]。選手・監督通じて初めてパ・リーグの球団のユニフォームに袖を通すこととなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。また楽天の監督として日本野球協会の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたオールスター第三戦が仙台の日本製紙クリネックススタジアムで開催されることになった。楽天の監督としての就任1年目は後半戦の7連勝でチームは3位に浮上するものの、最終的には5位に終わる。同年オフには阪神時代と同様に選手の大量解雇・トレードを断行。その結果金銭トレードでソフトバンクから小斉祐輔、ヤクルトから川島亮、中日から小山桂司、球団から自由契約にされた稲田直人、加藤大輔、定岡卓摩、ホセ・フェルナンデス、トレードから橋本義隆、上園啓史、入団テストで下柳剛を次々と獲得。投打の大型補強を行った。
【タイトル】
最多セーブ投手:1回 (1974年)(セ・リーグの初代最多セーブ投手である)
最高勝率(当時連盟表彰なし):1回 (1975年) ※セントラル・リーグでは、1972年まで表彰
【表彰】
沢村賞:1回 (1974年)
月間MVP:2回 (1975年9月、1977年8月)
正力松太郎賞:1回 (2003年)
報知プロスポーツ大賞特別功労賞 (2003年)
【記録】
オールスターゲーム選出:6回 (1969年、1974年 - 1976年、1979年、1981年)
【背番号】
22 (1969年 - 1970年)
20 (1971年 - 1982年)
77 (1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - )
最後まで読んでいただいた方へ
次はだれのプロフィールがいいですか?
遠慮はいりません(笑)
以上
Posted by ネイチャーみらい at 17:40│Comments(0)